太宰治の作品に見られる虐待の影

五十嵐宗雄

 上野発夜行寝台急行津軽に、見送りの級友らによる万歳三唱に送られて乗り込み、弘前の大学へ向かったのは40年以上前ではあったが、我が青春の舞台となる弘前に熱い気持ちを抱きながら、太宰治の「津軽」を読んだ記憶は未だ色あせず記憶に残っている。見知らぬ北国弘前を「津軽」が暖かく語り、微笑んで迎えてくれた。

 太宰論は従来より極めて多いが、生誕100年に当たる今年、その評論は特に目立つ。かつて手が付けられていなかった、作品の映画化も始まった。太宰を評価しない人は多く、彼らは「人間失格」のような暗く逃げ場のない世界を生理的に嫌う。太宰を評価する人でも「はしれメロス」と「ヴィヨンの妻」が同じ作家によるものとは信じ難いとか、揚げ句は「津軽」、「富岳百景」、「お伽草子」の様なものだけを書いていれば良かったとする意見まで見られる。多くの人は彼の二面性に戸惑っているように見える。しかし太宰文学の本質を理解するにはこの爽やかさと暗さの二面性こそが重要であり、太宰文学の本質とも言える。この二つを結びつけるには彼の被虐待児としての心の闇を明らかにしなければならない。彼が受けた小児期の心的外傷が人格解離を作り、その人格解離こそが二面性に他ならないのである。彼の放埒なその私生活も太宰嫌悪の大きな要因になっている。当時無頼派と呼ばれる作家は多かったが、太宰の度重なる自殺未遂は、そのなかでも受け入れがたい奇矯な行動として捕えられている。この繰り返す自殺未遂は、境界性人格障害の特徴であり、太宰文学を理解するためには精神医学的な見地から分析する必要があるが、未だそのような視点からの評論は少ない。

 太宰が両親より虐待を受けていたとする、証言、記述はあまり見ない。彼の受けた虐待は両親からのネグレクトと使用人から受けた性的虐待であるが、当時の社会状況はそれらが程度の差はあれ日常的に見られたため、あまり注目されてこなかったのであろう。彼の作品の中に両親、家族を非難する記述は目立たない。彼自身それが取り立て、異常なことと感じていなかったのだろう。しかし虐待の観点から子細に作品を見ると虐待の事実を語っている部分が少なからず見つかり、それが彼の人格形成に大きく影響を与えていると推測できる。特に彼の遺書と言われる「人間失格」には多くそれらがある。

 彼は10人兄弟の6男として生まれ、姉が4人いる。2人の兄は夭折している。青森県金木の資産家であり、兄弟が多く使用人も多かった。14才の使用人たけが、子守として3才の大宰を6年間母親代わりの世話をしている。その間母親の影はほとんど見当たらない。14才の少女がどこまで母親代わりができたか、はなはだ疑問である。たけが津島家を離れてからも母親の影は希薄である。「津軽」の中で、たけが津島家を離れてから、初めて再会した場面が書かれている。その中で彼はたけに対する肉親に近い情を熱く語っている。

平和とは、こんな気持ちのことをいうのであろうか。もし、そうなら、私はこの時、生まれてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい。先年なくなった私の生みの母は、気品高くおだやかなりっぱな母であったが、このような不思議な安堵感を私に与えてはくれなかった。

                    「津軽」より                               

母親を非難するような記述では決してないが、母親の愛情の希薄さをさりげなく十分に語っている。不思議な安堵感とは母親特有の無償の愛を意味する。それが与えられなかったと言うことは、母親のネグレクトがあったと考えざるを得ない。「津軽」は全体に抑えた筆致で書かれているが、彼の生い立ちと、人格の歪みが、強く結びついていることを伺わせる箇所が随所に見られる。その語り口が穏やかに抑制されたものであるため、多くの共感を得ることができ、評価の高い作品になっている。しかしその末文は多少含みを持った書き方になっている。

まだまだ書きたいことが、あれこれあったのだが、津軽の生きている雰囲気は、以上でだいたい語り尽くしたようにも思われる。私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日、元気で行こう。絶望するな。では、失敬。

                     「津軽」より                                          

 

かなり思わせぶりな記述であり、解釈は色々あるだろう。私は、太宰がこれでは書き足らなかったと言っていると理解した。書き足らなかったことを全てぶちまけたのがこの4年後に発表された「人間失格」だったのだろう。「人間失格」の中でも両親の虐待について具体的には書かれていない。しかし父親の虐待があったことを伺わせる記述は認められる。父親の訃報を聞き、「自分の胸中から一刻も離れなかったあの懐かしく恐ろしい存在が、もういない。自分の苦悩の壺がからっぽになったような気がしました。」と書いている。また小説の最後は、次の文章によって終わっている。 

 

「あのひとのお父さんが悪いのですよ」

何気なさそうに、そう言った。

「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした。」                                                                          

                    「人間失格」より

 

さりげなく語られているが父親の存在が彼に負の圧力をかけていたことが解る。具体的にどのような圧力であったかは書かれていないが、裕福な家庭で生まれてきたことから、生直後より栄達が太宰に課せられた目標であったと推察される。その条件をクリアしなければ、父親からの評価と言う形の愛を受けられなかったのであろう。無償の愛ではなく、条件付きの愛しか与えないのは、ネグレクトと言う虐待と現在では考えられている。「人間失格」の第一の手記は「恥の多い生涯を送って来ました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。」との暗示に富んだ書き出しで始まっている。そして次の部分に繋がっている。

子供の頃の自分にとって、最も苦痛な時刻は、実に、自分の家の食事の時間でした。自分の田舎の家では、十人くらいの家族全部、めいめいのお膳を二列に向い合せに並べて、末っ子の自分は、もちろん一ばん下の座でしたが、その食事の部屋は薄暗く、昼ごはんの時など、十幾人の家族が、ただ黙々としてめしを食っている有様には、自分はいつも肌寒い思いをしました。それに田舎の昔気質の家でしたので、おかずも、たいていきまっていて、めずらしいもの、豪華なもの、そんなものは望むべくもなかったので、いよいよ自分は食事の時刻を恐怖しました。自分はその薄暗い部屋の末席に、寒さにがたがた震える思いで口にごはんを少量ずつ運び、押し込み、人間は、どうして一日に三度々々ごはんを食べるのだろう、実にみな厳粛な顔をして食べている、これも一種の儀式のようなもので、家族が日に三度々々、時刻をきめて薄暗い一部屋に集り、お膳を順序正しく並べ、食べたくなくても無言でごはんを噛みながら、うつむき、家中にうごめいている霊たちに祈るためのものかも知れない、とさえ考えた事があるくらいでした。                                     

                  「人間失格」より

 

夕食の暖かな家族の団欒を全く経験せずに幼少期を過ごしていることが伝わる部分であろう。寒々とした食事風景は、寒々とした親子関係を暗示している。このような家庭環境はその当時では少しも珍しいものではないとの指摘は当然ある。しかしこの光景は両親のネグレクトがあったことを感じさせるに十分な記述になっていると私は解釈した。

 彼にはこれに性的な虐待が加わっている。「その頃、既に自分は、女中や下男から、哀しい事を教えられ、犯されていました。幼少の者に対して、そのような事を行うのは、人間の行い得る犯罪の中で最も醜悪で下等で、残酷な犯罪だと、自分はいまでは思っています。」との記述がある。どの時期にどのようなものであったかは触れていない。太宰は24才の時「魚服記」を発表している。父親から性的虐待を受けた13才の少女が滝壷に飛び込み鮒になった話である。厳しく美しい自然の中での親子の日常を叙事的に抑えた筆致で書いてある。そこに彼が幼少期に受けた性的虐待に対する静かな怒りが伝わってくる。「魚服記」では性的虐待の他に、自殺というテーマも扱っている。この作品は、太宰がカフェの女給田辺あつみと鎌倉で心中し、相手だけが死亡した事件から3年後に書かれている。自殺に最後の救いを求める意図も含ませているが、彼自身その詳細、また深層心理をえぐり出そうとする様子はなく、むしろ意図的に封印しようとしているように思われる。しかし大きな心的外傷を長く完璧に抑えることはできない。その後徐々に精神的に不安定な状況に陥り、過去のトラウマと全面対決しなければならない状況に進行していった。繰り返す自殺未遂、薬物中毒、精神病院入院、過度のアルコール依存、多彩な女性遍歴と今であれば連日ワイドショウー種と思われる事件を全て取り上げた「人間失格」を執筆することになる。これは彼の遺書と評価されているもので、書かれている内容は全て事実に基づいていると考えられ、彼の人生観、精神病理を判断する材料となっている。

 太宰は無頼派とよばれる作家の一人ではあるが、その奇矯な行動は他の無頼派より際立っている。それを自己愛性人格障害と一部に説明されている。彼の裕福な家庭環境からの類推と思われるが、それは当てはまらない。自己愛型の人格障害には無自覚タイプと、過剰警戒タイプがある。無自覚タイプは母親の過保護と父親の不在が原因となっていることが多いとされている。「津軽」で語られている母親の行動は、ネグレクトと考えられ、太宰に母親の過保護の影響はないと言って良い。無自覚タイプの自己愛性人格障害の特徴は他人の反応に対し無頓着、傲慢、攻撃的、他人に傷つけられることにひどく敏感であるとされている。「風とともに去りぬ」のスカーレット・オハラがまさにこのタイプと言われている。過剰警戒タイプの自己愛性人格障害は親の愛情が薄かったことことから、自己像を過大に膨らまし、傷ついている自尊心を取り戻そうとする際にみられる障害とされている。注目されるのを避ける、恥ずかしがり屋である、傷付けられやすく、他人に軽蔑や批判で対応する特徴が見られる。どちらの自己愛性人格障害も肥大した自尊心のために、他人の心の傷、弱者の悲しみを理解しようとしないのが共通とされている。どこぞの国の世襲議員に多く見られるタイプと言える。太宰にこれらの要素はほとんど見られない。彼の文学は、優しさの文学と言われている。優しさとは人の憂いを自己の憂いとすることとされている。彼は「人間失格」のなかで、「あれは日陰者だと指差されるほどの人と逢うと、自分は必ず優しい心になるのです」、と述べている。この感情こそが太宰文学の魅力であり多くの読者を現在でも引きつけている理由であろう。「津軽」のなかで蛙の池に飛び込む水音に自らのはかなさを重ね合わせている。また「富嶽百景」のなかで、遊女に優しい気持ちを語っている。どちらも多くの人の共感を集めた一文とされているので、その部分を下に記す。

あの古池の句に就いて、私たちは学校で、どんな説明を与へられてゐたか。森閑たる昼なほ暗きところに蒼然たる古池があつて、そこに、どぶうんと(大川へ身投げぢやあるまいし)蛙が飛び込み、ああ、余韻嫋々、一鳥蹄きて山さらに静かなりとはこの事だ、と教へられてゐたのである。なんといふ、思はせぶりたつぷりの、月並(つきなみ)な駄句であらう。いやみつたらしくて、ぞくぞくするわい。鼻持ちならん、と永い間、私はこの句を敬遠してゐたのだが、いま、いや、さうぢやないと思ひ直した。どぶうん、なんて説明をするから、わからなくなつてしまふのだ。余韻も何も無い。ただの、チヤボリだ。謂はば世の中のほんの片隅の、実にまづしい音なのだ。貧弱な音なのだ。芭蕉はそれを聞き、わが身につまされるものがあつたのだ。古池や蛙飛び込む水の音。さう思つてこの句を見直すと、わるくない。いい句だ。当時の檀林派のにやけたマンネリズムを見事に蹴飛ばしてゐる。謂はば破格の着想である。月も雪も花も無い。風流もない。ただ、まづしいものの、まづしい命だけだ。当時の風流宗匠たちが、この句に愕然としたわけも、それでよくわかる。在来の風流の概念の破壊である。革新である。いい芸術家は、かう来なくつちや嘘だ、とひとりで興奮して、その夜、旅の手帖にかう書いた。

「山吹や蛙飛び込む水の音。其角、ものかは。なんにも知らない。われと来て遊べや親の無い雀。すこし近い。でも、あけすけでいや味(み)。古池や、無類なり。」

                    「津軽」より

 

トンネルの入口のところで、三十歳くらゐの痩せた遊女が、ひとり、何かしらつまらぬ草花を、だまつて摘み集めてゐた。私たちが傍を通つても、ふりむきもせず熱心に草花をつんでゐる。この女のひとのことも、ついでに頼みます、とまた振り仰いで富士にお願ひして置いて、私は子供の手をひき、とつとと、トンネルの中にはひつて行つた。

                    「富嶽百景」より

 

この箇所を読んだだけで、自己愛性人格障害のレッテルは太宰には合わないことが解る。自己愛型の作家と言えば石原慎太郎、三島由紀夫が上げられる。両者とも太宰が嫌いと公言している。三島由紀夫は、約20年間にわたって繰り返し太宰に生理的嫌悪を表明し続けた。「太宰の持っていた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だつた。第一私はこの人の顔が嫌いだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味が嫌いだ。第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのが嫌いだ」。と受け入れられないことを感情的に語っている。太宰と彼らは本質的に相反するものがあり、決して共感すること、交じり合うことはないように思える。

 太宰の性格、異常行動は小児期の虐待により形成された、境界性人格障害によるものと考えられる。境界性人格障害は小児期に受けた慢性的な心的外傷によるPTSD(心的外傷後ストレス障害)であると考えられている。その精神病理の基本骨格は解離性同一性障害である。虐待の中でそれに適応する為に作り上げた二重の自己がその後の精神的不安定、脆弱性を導いている。虐待する両親を正当化するための自己を“悪い子”とし、その一方で両親の歓心を買おうと表面上は“良い子”を演じる二重人格が生まれる。この二重構造が人格解離の基本であり、その結果として生ずる同一性障害が、不安定な対人関係、衝動性、自傷行為、抑鬱、薬物嗜癖、アルコール依存症と実に多彩な症状を導き出す。では太宰がどのような人物であったのか。その参考になるいくつかの記述がある。壇一雄は角川文庫「人間失格」の解説「太宰治-人と文学」のなかで太宰の人となりを表現している箇所がある。太宰自身も小説の中で主人公を表現することにより、自己分析している箇所が「津軽」と「人間失格」の中にある。それぞれ異なった角度から太宰の内面を異なった言葉で表しており、太宰を理解する上で大変参考になる。

 

心持猫背の、その痩身が歩み過ぎる後ろ姿には、やるせない憂悶があった。けれども酒は豪酒であり、酔えば、屈託なくおどけ、いや、津軽土着の、野太い諧謔があった。棟方志功氏などとも、まったく共通な津軽人の剽軽である。剽軽と云って言い足りないとしたら、剽重とでも呼べそうな、土着の快活である。太宰がメソメソと泣いてばかり居たとでも思い込まれたら残念だから、云っておくが、太宰は野性的で、野暮で、逞しい一面をたしかに持っていた。

            壇一雄、角川文庫「人間失格」より

 

私はたけの、そのやうに強くて不遠慮な愛情のあらはし方に接して、ああ、私は、たけに似てゐるのだと思つた。きやうだい中で、私ひとり、粗野で、がらつぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だつたといふ事に気附いた。私は、この時はじめて、私の育ちの本質をはつきり知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。だうりで、金持ちの子供らしくないところがあつた。

                     「津軽」より

自分ひとり全く変っているような、不安と恐怖に襲われるばかりなのです。自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。

 そこで考え出したのは、道化でした。

 それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。

                   「人間失格」より

 

 被虐待児としての太宰は、両親から愛されなかった心的外傷から、自己を肯定できず、嫌悪感すら伴う自己否定と、その低められた自己をよく見せようとする自己が葛藤し、その二者を合理的に統合できなくなっていたと考えられる。多くの被虐待児の常として、低められた自己像が不変部分となり、成人して虐待が終わってもからも、低められた自己規定が続き、自己像は解離することになる。太宰の場合、彼が演じる道化は真の自己ではなくニセの自己と感じる結果、剽軽さで人を楽しませたり、社会的に作家として成功を収めても常に自己の達成感を得ることができなくなっていた。壇一雄はメソメソした太宰はいない、即ち同一性障害はないと言っているが、太宰自身は「津軽」、「人間失格」のなかで同一性障害に苦しんでいることを、道化という行動から語っている。極端に低くしか評価できない自己を、周囲の歓心を引く為に道化で、人を笑わせることにより、辛うじて自己の存在感を表現し確認していると自己分析している。小児期は両親、使用人の歓心を買う為の道化であり、成人してからは世間からの歓心を引く為に道化を演じ、笑いを取ることで自己の立ち位置を、確認していたのである。太宰の笑いの形は自虐的なものが多い。「かちかち山」では自らを模したと見られる、好色な中年の狸が残酷な処女のウサギに、なぶるように殺される様を描いている。「お伽草子」の内容はこのような自虐的な諧謔が多い。この自虐性の中に太宰の自己像の脆弱性を見ることができる。「二十世紀の旗手」では「生まれて、すみません」と書いている。まさに自己像の脆弱性から来る、自己否定そのものである。彼の作品の多くは、この自己の脆弱性と、世間の評価に対する意識の過剰感が見られる。その解離した自己像の軋轢が、彼の作品の底流であり、実生活での奇矯な行動の原点となっている。21才の時、行きずりのカフェの女給、田辺あつみと鎌倉で薬物心中をはかるが、女のみ死亡し、自分は助かった。26才でパビナール中毒、その翌年に東京武蔵野病院に薬物中毒治療のため入院と、はた目からは理解しがたい、破滅的な事件が続く。39才で「人間失格」」を書き、この間の事情を克明に書いている。心中に関しては、まず相手の女性を貧乏臭い女と表現している。女の身の上話を聞き「自分の持っている多少トゲトゲした陰鬱の気流と程よく溶け合い水底の岩に落ち着く枯葉のように我が身からの不安からも離れることができた」と述べている。それは太宰が自分と同じ心の傷を感じた瞬間であり、またその女に赤い糸と、愛情を感じた瞬間でもあったのだろう。小説の中では次のような記述になっている。

 

女の口から「死」という言葉がはじめて出て、女も人間としての営みに疲れ切っていたようでしたし、また、自分も、世の中への恐怖、わずらわしさ、金、れいの運動、女、学業、考えると、とてもこの上こらえて生きて行けそうもなく、そのひとの提案に気軽に同意しました。

 けれども、その時にはまだ、実感としての「死のう」という覚悟は、出来ていなかったのです。どこかに「遊び」がひそんでいました。

 その日の午前、二人は浅草の六区をさまよっていました。喫茶店にはいり、牛乳を飲みました。

「あなた、払うて置いて」

 自分は立って、袂からがま口を出し、ひらくと、銅銭が三枚、羞恥よりも凄惨の思いに襲われ、たちまち脳裡に浮ぶものは、仙遊館の自分の部屋、制服と蒲団だけが残されてあるきりで、あとはもう、質草になりそうなものの一つも無い荒涼たる部屋、他には自分のいま着て歩いている絣の着物と、マント、これが自分の現実なのだ、生きて行けない、とはっきり思い知りました。

 自分がまごついているので、女も立って、自分のがま口をのぞいて、

「あら、たったそれだけ?」

 無心の声でしたが、これがまた、じんと骨身にこたえるほどに痛かったのです。はじめて自分が、恋したひとの声だけに、痛かったのです。それだけも、これだけもない、銅銭三枚は、どだいお金でありません。それは、自分が未だかつて味わった事の無い奇妙な屈辱でした。とても生きておられない屈辱でした。所詮その頃の自分は、まだお金持ちの坊ちゃんという種属から脱し切っていなかったのでしょう。その時、自分は、みずからすすんでも死のうと、実感として決意したのです。

                    「人間失格」より

 

太宰が心中事件を起こした時もこれとほぼ同じ状況であった。左翼運動、大学の長期欠席を理由に実家から送金を止められ、実生活も経済的に逼迫していた。この部分は太宰が心中を決意した時の心境を過不足なく書いていると考えられる。しかし当然こんな理由で、人は本当に自殺できるのかとの疑問が起こり、理解不能とする人がほとんどであり、さらにこれが死を気軽に玩ぶ太宰を生理的に嫌う大きな理由になっている。しかしこの衝動性こそが境界性人格障害の病理であり、一般人との終始埋められない溝なのである。山崎富栄との玉川上水入水に関してもほぼ同じ状況、同じ心境であったと推測される。しかし過去あまりにも多くの自殺未遂を繰り返したことから、様々な憶測を呼び、山崎富枝の無理心中説まで取りざたされ、現在に至っている。しかし精神的に追いつめられた人間の判断理由を世間の一般常識で理解することは不可能と言える。追いつめられるまでの経過を理解しなければならない。自殺を決意した背景は境界性人格障害であり、その直接要因は「人間失格」の執筆と考えられる。執筆の過程で小児期から連なる心的外傷が不用意に呼び起こされ、そのトラウマの記憶と一緒に格納されていた、悲しみ、苦しみ、恐怖がパンドラの匣を開けたように飛び出してきたのだろう。慢性的な精神障害であるPTSD(心的外傷後ストレス障害)が、突如急性精神障害である、パニック障害になってしまったことは容易に想像できる。世間と不安定な自己像との激しい同一性障害を、もはや薬物やアルコールでは抑えきれなくなったのであろう。では何故太宰が長い間、おそらくは無意識に封印していたパンドラの匣をあけてしまったのだろうか。私は徐々に精神的に追いつめられた太宰が、衝動的に過去の全てをぶちまけたくなったのではないかと考えている。その衝動性こそが彼の人格障害の症状であり、その衝動は必然であったと思われる。

 太宰への高い評価は「津軽」、「富嶽百景」、「走れメロス」で表現されている人間に対する、特に弱者にたいする優しさであり、「お伽草子」にみるユーモアであるとするものが多い。しかし現在に至るまで最も読まれているのは「人間失格」であり、この作品を読んで救われたと感ずる人が多い。このことは虐待による同一性障害に悩む人が現在でも多いことを物語っている。みずから選んだ作品集「晩年」の最初に収められた「葉」の冒頭に「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」と言うヴェルレーヌの一節が引用されている。解離性同一性障害を、うまく表現している。太宰が自分と同じ心の闇をこの一節に見いだしたのであろう。ヴェルレーヌもやはりデカダンスの教祖と言われていた。解離性同一性障害に悩む人は国境、時代を超えて多いことを改めて感じる。フランソワ・ヴィヨンもその一人である。彼は幼少期を不幸な境遇で過した。詩人としての社会的評価は高いにも拘らずその生涯は、無頼、放浪、犯罪に終始している。「ヴィヨンの妻」の題名の由来は、太宰が彼に共感したことからきたのであろう。小児期におけるネグレクトの大きな特徴は無償の愛を受けられなかったことにある。愛があってもそれは常に条件付きの愛である。その条件は親の気まぐれで大きく変動するか、または社会規範から大きく外れることが多い。常にその条件を意識し、それに合わせようとすることは途方もない生命エネルギーの浪費であり、達成感を真に感じることは不可能に近く、その結果精神を荒廃させることになる。成人し社会的な地位が確立しても精神の不安定感、自己像の脆弱性に悩むことになる。そこに救いはあるのだろうか。救いがあるとすれば小児期に得られなかった、条件付きでない無償の愛を受けることしかないのである。「ヴィヨンの妻」は「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」との妻の台詞で終わっている。これこそが無償の愛そのものである。「走れメロス」のテーマもこの無償の愛にほかならない。この二つの作品は、設定、登場人物こそ違え、語っている内容は同じなのだとわかる。「走れメロス」を書いた作家と「ヴィヨンの妻」を書いた作家が同じであるとは考えられないとする意見は少なくないが、こうして内容を分析してくると、まさに同一人物が書いた作品であると理解できる。この二つの作品は太宰が描いたメルヘンの第一章と、第二章とさえ私には思える。「人間失格」の最後は次のように終わっている。

 

「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、…………神様みたいないい子でした」

                   「人間失格」より

 

喫茶店のマダムに語らせたこの言葉に太宰は救いを求めたのである。しかし実際にこの言葉を語りかけたのは世間ではなく、山崎富栄であったことが彼の悲劇なのであろう。

 

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