ジョン・レノンの作品に見られる虐待の影

五十嵐宗雄

  私たち団塊の世代にとり、ビートルズの存在は青春の記憶そのものと言っても過言ではありません。私が初めてビートルズを聞いたのは中学生の時でした。その時既にその圧倒的な音楽的魅力を感覚的に理解した覚えがあります。親の世代はただうるさいだけと毛嫌いすることがほとんどでした。親に楯突けない子供時代ですから、そういうものなのかなと納得せざる得ない反面、その表現力を理屈ではなく感覚で理解していました。この感覚は程度の差はあれ我々団塊の世代には共通した認識と言えるでしょう。当時は音楽的な理解力もなく、ましてや英語力も人間観察力も未熟であったのに感覚的に彼らのメッセージを理解できたのは、若さに由来する豊かな許容力のなせる技だったように思います。馬齢60を加え若干の経験を積み、小児科医としての基礎的な知識の上で改めて彼らの音楽を聞くと、思春期に感じたものが色褪せずに感じられると伴に、それ以外のメッセージも聞けるようになってきました。とりわけジョン・レノンの大きさ、深さは思春期には気付くことができていなかったことがわかります。

 ジョン・レノンの生い立ちについては既によく知られています。父親は船乗りで家庭をほとんど顧みない状態であり、母親も育児放棄で彼は伯母によって育てられています。ネグレクト環境が彼の成育にどのような影響を及ぼしたかについて彼は何も語ってはいません。しかしその影響は彼の作品の中に見ることができます。このような視点から彼の作品を検証した報告は私の知る限りなく、私独自の見解が多く入ってしまうことを予めご了承いただきたいと思います。

 ビートルズの出身地はリバプールであることはよく知られています。その故郷を題材にした作品が二つあります。ポール・マッカートニー作のペニー・レインとジョン・レノン作のストロベリー・フィールズ・フォーエバーがそれです。二つはほぼ同時期(1967年)に作られていますが。内容は全く異なります。ペニー・レインは明るく弾んだ旋律で、謳われている内容もそこに暮らす人たちへの暖かな視線にあふれています。ポール・マッカートニーの作品はもともとラブソングが多いのですがこれも故郷に対するラブソングになっています。それに対しストロベリー・フィールズ・フォーエバーは異なる曲調を持っています。ストロベリー・フィールズは彼の自宅近くにあった孤児院とされています。

 

 

Let me take you down, 'cause I'm going to Strawberry Fields.

Nothing is real and nothing to get hung about.

Strawberry Fields forever.

 

Living is easy with eyes closed, misunderstanding all you see.

It's getting hard to be someone but it all works out.

It doesn't matter much to me.

 

 

No one I think is in my tree, I mean it must be high or low.

That is you can't you know tune in but it's all right.

That is I think it's not too bad.

 

Always no sometimes think it's me,

but you know I know when it's a dream.

I think I know I mean "Yes" but it's all wrong.

That is I think I disagree.

 

僕と一緒に行かないか

あのストロベリー・フィールズに

すべてが夢 捕われるものさえ何もない

ストロベリー・フィールズよ 永遠に

 

目を閉じれば 人生なんて楽なもの

目に映ったものは 自分なりに受け止めればいい

ひとかどの人物になるのは困難なことさ

それでもなんとかなるもの 僕には関係ない話だ

 

どうやら 僕の樹には誰もいないようだ

それが高かろうと低かろうと

つまり 誰もぼくを理解することはできないのさ

でも それでいいんだ

僕にとっちゃ それほど不幸って訳じゃない

 

これが本当だと、いつも思っている

だけど、この僕も虚構なのかもしれない

きみのことを解っているつもりでも

すべては僕一人よがりなのかも知れない

つもり僕ときみは同じじゃないってことさ

 

訳詩はネット上でも多くが試みられています。多少の違いはあれ上記CD付属の訳詩とほぼ同じ内容になっています。しかし多くの人が訳詩にあたり意味不明の箇所があると指摘しています。私は当初からこの訳詩には違和感を覚えていました。この訳は基本的に間違っているのではないかと考えたのが、そもそもこの随筆を書いてみようと思った動機です。彼がオノ・ヨーコと出会ったのはこの作品を発表する1年弱前の時期です。彼女の「天井の絵」という作品は脚立で天井に掛けてある小さなキャンバスに描いてある小さな字を虫眼鏡で見るというものでした。そこに書かれた字がyesであったことに感動したことから、交際が始まったと彼が語っています。彼の信条はyesと常にポジティブに向き合うことであったことから、彼女の信条と見事一致したと考えられます。彼のその生き様を前提にすると上記のような訳詩になるのだと思います。しかし無理にその枠に押し込めて訳すと意味不明の箇所が少なからず出てきてしまいます。またオノ・ヨーコの作品にあった“yes”はこの歌詞に見られる”yes”の伏線になっていることは見逃せません。そこで次に私なりの訳をお示ししたいと思います。

 

あなたを暗い気持ちにさせるかもしれません、

なぜなら今私はストロベリーフィールズのことを考えています

そこは現実とかけ離れた何もない荒涼とした世界です

ストロベリー・フィールズ、その地獄の悲劇は永遠に忘れない

 

目に見えるものは誤解だらけなのだから

目をつぶって生きて行こう

最近立派な人間になるのに疲れてきた、

一応はそれらしくはやってきたけどね

そんなことはどうでもよくなってきた

 

私と同じ境遇の人間は誰もいない、後にも先にもまわりにも

つまりあなたは私と価値観を共有することはできない、それでいいんだ

仕方ないことなんだ

 

今の、または今までの自分は夢のまた夢なのか

yesと物事を前向きに捕らえてきたが、それは間違いだ

そうさポジティブに向き合わなければならないと突っ張ってきたが

必ずしもそれに同意していたわけではないんだ

 

従来言われていた内容とはだいぶ異なるものになっています。この歌詞は極端な比喩で書かれていますので、人によって随分と違う捕らえ方になってしまうのは当然でしょう。私の解釈がどこまで当を得たものであるか本人がいない現在では確認のしようがありません。この作品はジョン・レノンがアイデンティテークライシスを起こしかけていた頃に書かれた作品だと考えています。この作品がリリースされた4年後に「マザー」「とワーキング・クラス・ヒーロー」が作られました(1970年)。共にストロベリー・フィールズ・フォーエバーとは全く異なって比喩的な表現はほとんどなく、直接的な言葉でかかれています。彼がはっきりとアイデンティティークライシスに向き合い始めたと思われます。

 

Mother, you had me but I never had you,

I wanted you but you didn't want me,

So I got to tell you,

Goodbye, goodbye.

Farther, you left me but I never left you,

I needed you but you didn't need me,

So I got to tell you,

Goodbye, goodbye.

Children, don't do what I have done,

I couldn't walk and I tried to run,

So I got to tell you,

Goodbye, goodbye.

Mama don't go,

Daddy come home.

 

 

最後のフレーズMama don't go, Daddy come homeは絶叫と言える歌い方になっています。「マザー」はあまりに狂気じみているとしてアメリカでは放送禁止になりました。1971年には「イマジン」と「ハッピー・クリスマス(戦争は終わった)」を発表しています。どちらも反戦と差別の撤廃を訴える攻撃的なテーマですが歌詞、旋律共に穏やかにまとめてあり、今でも名曲として高い評価を受けています。これら一連の作品はジョン・レノンの思想、信条そのもの、また彼の内面そのものと言えます。この時期の彼は自分の中に潜んでいたネグレクトという被虐待児としての闇に向き合ったと考えられます。「マザー」とはまさに彼の心の闇の叫びでしょう。彼の心の闇を引き出したのは他でもないオノ・ヨーコと考えられます。彼女と出会った1966年から1971年まで多くの作品が作られています。ラブソングがメインのポール・マッカートニーとの路線の違いが目立ち始め1969年にはビートルズからの脱退を表明し1971年には正式に解散となりました。ビートルズ解散という当時の大事件の犯人はオノ・ヨーコとマスコミのみならずポール・マッカートニーも言っています。ではなぜジョン・レノンはビートルズを捨ててまでオノ・ヨーコを選んだのでしょうか。それはまだ不明です。しかし彼の作品の流れを見ると自ずと見えてくるものがあります。オノ・ヨーコはその回想の中でジョン・レノンとの会話を明かしています。彼はブルーカラー出身で、リバプール訛であることから受けた差別に怒りと劣等感を感じていたと述べています。その感情と深く絡みあっているのが被虐待児としての心の闇だったのでしょう。彼自身が無意識のうちに封印していたもの、誰にも指摘されなかったものを彼女に語り始めたのでしょう。彼女に対する信頼感がどこからきたのかは不明です。憶測が許されるとするなら、彼女にも彼と同じ心の傷があったからなのかもしれません。

 被虐待児としての過去には強い悲しみと深い心の傷がその記憶と共に眠っているものです。過去の記憶を呼び出せば一緒に格納された絶望的な心の痛みが制御不能のままに飛び出します。彼はしばらくそれと対峙せざるを得なかったようです。その結果が「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」から「マザー」、「ワーキング・クラス・ヒーロー」、「イマジン」、「ハッピー・クリスマス」へと繋がっていったと考えられます。被虐待児の特徴はセルフイメージの不安定さ、脆弱性さらに人格解離と進むのですが、当時のジョン・レノンにはそのような状態へと徐々に進んでいったように思われます。1975年から1980年の5年間はほぼ音楽活動を中止しています。それ以前から薬の噂が絶えず流れ、オノ・ヨーコとの別居も1973年より始まっています。この間に何があったかは誰も多くは語っていません。この時期は乳幼児期のネグレクトによって受けた心の傷、それから派生した人格の乖離と正面から向き合わざるを得なかったのでしょう。専門医のカウンセリングを受けていた形跡はないようです。自らが行動的、情緒的、認知的な不適応状態に対峙し、自らでそれらの修正を行っていたのではないかと推察されます。彼の偉大さはそれを自らの力で成し遂げたことです。成し遂げたと私が感じるのは1980年にリリースされた「スターティング・オーヴァー」が彼の再出発を明るく、強く表現しているからです。しかし1980年12月8日凶弾に倒れました。その時私はカリフォルニア州ラフォイヤの研究室にいました。その日、ラジオから一日中ビートルズの曲が流れていたことを想い出します。

 

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